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児雷也

児雷也   
            有賀 義弘 先生


 肥後国で栄えた豪族の遺児である尾形周馬弘行は、越後妙香山に棲む蝦蟇の精霊・仙素道人から蝦蟇の妖術を授かり児雷也を名乗る。

 のちに家再興のため各地で妖怪や悪人を懲らしめるなど活躍し、やがて管領家から宥文を受け悪人を伏滅する志を固める。

 蛞蝓の妖術を操る美女・綱手を妻とし、蛇を操る宿敵の悪賊・大蛇丸と蝦蟇・蛇・蛞蝓の三すくみの妖術乱闘を繰り広げる。

 児雷也豪傑譚ものがたりは、歌舞伎や映画、講談、浮世絵から漫画に至るまでさまざまな媒体に登場し、また大きな影響を与えつづける永遠のヒーロー・児雷也の活躍を複雑かつ怪奇に絡み合う筋立と、遠大かつ雄渾なスケールの中に描き出している。

 このねぶたは、飛行術を駆使し、宿敵・大蛇丸と戦う児雷也の勇姿をねぶたに現したものである。
自衛隊2018

火焔の蝦夷 阿弖流為と鬼剣舞

火焔の蝦夷 阿弖流為と鬼剣舞
                              林 広海 先生


東北の歴史とは中央政府からの理不尽な侵略と敗北の歴史である。その歴史において、東北まほろばの地を守ろうとした英雄たちがいる。名を馳はせるところでは、源義経であり、安倍貞任であり、阿弖流為である。彼らは和の心を持って戦ってきたが、国史の名の下に敗者となり、非業ひごうの最期を遂げた者たちである。

 鬼剣舞という民俗芸能が、今も岩手県北上市周辺に伝わっている。刀を振りかざし、五色の忿怒ふんどの形相の鬼面をつけ、勇壮に舞い踊る。その鬼面には鬼ながら角はなく、仏教の五大明王を表している。この踊りは、蝦夷の地と呼ばれた東北の地で御霊となって亡くなった人々の鎮魂の儀式とも言われている。つまり、鬼剣舞の鬼とは仏であり、そう先の源義経であり、安倍貞任であり、阿弖流為である。彼らは、強力な中央政府に対して、まさしく「鬼」となって戦い、東北みちのくの地で散っていったのである。

 このねぶたは、今でも心の中に生き続ける英雄たちの鬼面をかざす阿弖流為の勇姿に東北蝦夷のみなぎる魂を表現したものである。
日通2018

鍾馗

鍾馗
        内山 龍星 先生






中国の玄宗皇帝は病に伏し、ある夜、高熱の中、夢を見た。

小鬼が現れ、日頃大切にしている香を盗んだり玉笛を吹いて騒いでは悩ましていた。

玄宗が家臣を呼ぶと、大鬼が現れ小鬼を捕らえ食べ殺した。名を問えば、大鬼は「鍾馗」と名乗り「天下の為、悪鬼を退治する誓いを立てた」と申し述べ、消え去った。

夢から覚めると玄宗皇帝の病はすっかり回復していた。

それを当世第一の画家 道玄に伝え、夢に見た鍾馗の姿絵を描かせた。

以来、この姿絵を魔除けや疫病からの守り神としたという。
PTA2018

鍾馗

鍾馗
          諏訪 慎 先生

 唐の6代皇帝玄宗が瘧(おこり)=マラリアにかかり、床に臥せていた。玄宗は高熱の中で夢を見る。宮廷内で小鬼が悪戯をしてまわるが、どこからともなく虎を連れた大男が現れて、小鬼を難なく捕らえて食べてしまう。玄宗が大男に正体を尋ねると、「自分は鍾馗と言い、武徳年間に官吏になるため科挙を受験したが落第し、それを恥じて宮中で自殺した。だが高祖皇帝は自分を手厚く葬ってくれたので、その恩に報いるためにやってきた」と告げて姿を消した。

 夢からさめると玄宗の病はすっかり癒えていた。玄宗は著名な画家に鍾馗の姿絵を描かせ、以来この鍾馗の肖像は、疾病除け、邪気除けの守り神として伝えられている。中国に伝わる神話である。
愛好会2018

元禄水滸伝

元禄水滸伝     
                  北村 蓮明 先生






江戸時代も元禄の頃になると、平和が続き、農業の発展により、商品作物を運ぶため、町や交通も発達した。人々の生活は次第に派手になり、町人たちを中心に、浮き世草子、歌舞伎、浄瑠璃、浮き世絵などが栄え、自由に生き生きと活気にあふれていた。

都市には、大商人が生まれ、富みを貯え、次第に力を強めていった。中には「地獄の沙汰も金次第」と吹聴する悪徳商人もいて・・・。

ねぶたは、義侠心あふれる若武者が横暴を極める悪党を許せず、地獄に乗り込み、不当な裁断をする「閻魔」を懲らしめに行く場面。

混迷続く、この世界。勇気を持もって、立ち向かっていきたいと願うものである。


パナソニック2018

おしら様

おしら様
                    北村 蓮明 様


私が子供の頃、本家におしら様が祀られていた。

祖母がおしら様を両手に持ち、痛いところをシャンシャンとたたいて直してあげていたものである。

おしら様は、東北地方で信仰されている家の神で、一般には蚕の神、農業の神、馬の神とされる。

ご神体は桑の木で作った一尺程の棒の先に、男女の顔や馬の顔を書いたり彫ったりしたものに、布きれで作った衣を多数重ねて着せたものである。

男と女、馬と娘、馬と男など二体一対で祀られていることが多く、特に青森県、岩手県で濃厚に残っている。

昔、ある農家に娘がおり、家の飼い馬と仲が良く、ついには夫婦になってしまった。

娘の父は怒り、馬を殺して木に吊り下げた。

娘は馬の死を知りすがりついて泣いていると、父はさらに怒り、馬の首をはねてしまった。すかさず娘が馬の首に飛び乗ると、そのまま空に昇り、おしら様になったという。

県板金2018

九尾の狐 「玉藻前」

九尾の狐 「玉藻前」
                  北村 蓮明 先生


平安時代末期、鳥羽上皇の寵愛を受けた「玉藻前」という絶世の美女がいた。

しかし上皇は次第に病に伏せるようになり、心配していた家臣たちは、陰陽師の安倍康成に依頼し、占わせると玉藻前の仕業と見抜く。

「中国では殷の紂王の后、妲己と名のり、周の幽王の后、褒姒と名のり、天竺では班足王の后となり、ことごとく王を惑わし国を滅ぼした九尾の狐。そして今ま、日本に来て玉藻と名のる」

安倍真言を唱えると、玉藻は苦しみもだえ、形相を変え、ついにその正体を表わして、天空に飛び去って行ったのである。

九尾の狐はその後、那須野原に追いつめられ絶命したものの、巨大き毒石に変化し、近づく人間や動物等などの命を奪うようになった。

しかし、玄翁和尚の霊力でその力は弱められ、「殺生石」として今も立っているという。

日立2018

大海原の神 金毘羅大権現

大海原の神 金毘羅大権現
                           手塚 茂樹 先生

 海上交通の守護神として、古くより漁師や船員などから、多くの信仰を集める金毘羅大権現。

 またの名を薬師十二神将『宮比羅』。 亥いの神でもある。

 荒れ狂う大波に巻き込まれ、風前のともし火の船乗りが祈る声を耳にした金毘羅大権現は、分身である巨大な黄金色のイノシシと共に荒海に姿を現した。宝剣を豪快に操り起こした神通力と、イノシシの強烈な勢いで怒いかる荒波を鎮め、ほどなく海は穏やかさを取り戻したのであった。

 金刀比羅宮(通称 こんぴらさん)に直接お参りに来られない船乗りが、のぼりを立てた樽に酒や賽銭を入れて船から瀬戸内の海に流すと、地元の漁師が拾って代わりに奉納する『流し樽』の風習が今に残り、現代も厚く崇あがめられる金毘羅大権現の姿に、海で繋がる世界が平和であると共に、『猪突猛進』亥のごとく、希望の未来に向かって邁進していく事を祈念するものである。

マルハ2018

甲斐の虎・越後の龍 「川中島の決戦」

甲斐の虎・越後の龍「川中島の決戦」
                    千葉 作龍 先生

下剋上に明け暮れる戦国の世。

関東管領・上杉謙信は弱体化した足利将軍を庇護すべく、正義と秩序の戦いを繰り返していた。

謙信は、自らを「毘沙門天」の化身と称し、その戦いは四十九年の生涯に於いて数十回に及んだ。

中でも十年余に及ぶ宿敵「甲斐の虎・武田信玄晴」との五度に渡る川中島での合戦は、熾烈を極め雌雄を決することは無かったという。

永禄四年(1561年)秋。

四度目の川中島での合戦。

鞭声粛々と未明の千曲川を渡る上杉軍。

その時、朝靄に煙る武田の陣に、信玄目掛けて只一騎。

「越後の龍・上杉謙信輝虎」 いざ 見参!!
サンロード2018

岩木川 龍王と武田定清

岩木川 龍王と武田定清
              竹浪 比呂央 先生

青森県中泊町武田地区。十三湖にほどちかい岩木川下流に位置するこの地区は、昭和三十年まで武田村であった。

 冠する「武田」の名は、その地の治水開拓に尽力した弘前藩士 武田源左衛門定清に由来するものである。

 時は江戸、弘前藩中興の祖四代藩主信政公の世。新田開発や治水・灌漑工事に力を入れた信政公に、才覚ありと取り立てられたのが武田源左衛門定清である。

 当時の岩木川は、自然そのままで、駒越川(現在の岩木川)と樋ノ口川(現在の弘前城西濠)の二本に分かれていた。

 雪解けや大雨の度に氾濫を繰り返し、城下町や下流域を襲い、洪水に水害と猛威を奮い続ける脅威の存在であった。

 そこで延宝二年(一六七四)、信政公は二十八歳の源左衛門を岩木川穿替工事の惣奉行に命じ、天和二年(一六八二)には樋ノ口川を留め切り、二本の川を一本にして岩木川とすること、また岩木川二十四里(約八十キロメートル)の堤防築造大工事と下流域の治水と新田開発の推進を申し付けた。

 濁流となって暴れくる岩木川と対峙し、治水の陣頭指揮をとる源左衛門。すると、どこからともなく龍王が顕現し、その清らかな流れをもって濁流を制すると、しずしずと流れは収まっていった。

 龍王の加護の元、源左衛門は信政公の期待に応え、岩木川治水工事を見事完遂。岩木川流域の土地と人々の生活を守ったのであった。

 激しく荒れ狂う岩木川に挑む武田源左衛門定清と彼かの者に清流の力を与えんとする龍王の姿である。
青森菱友会

風神雷神

風神雷神
        竹浪 比呂央 先生 


風が吹き、雲を呼ぶ。
たちまち黒雲たちこめて、稲光が走る。
風神と雷神は大地に恵みの雨をもたらす。
農作物に多大な被害を与える暴風を鎮めるため祀られた風神。
日照りや水不足で困り果てた時に雨神を呼び、多くの人々に信仰されている雷神。
青森県津軽地方の信仰の対象である岩木山では、毎年旧暦の八月一日までの三日間、豊かな実りの秋を祈願して人々が集団ん登拝するお山参詣が行われる。参拝者たちは、登山囃子が鳴り響く中「サイギ、サイギ」の掛け声に合わせ登拝する。
岩木山お山参詣を背に天上を舞う風神と雷神。この地球の異常気象を封じ、青森から世界の五穀豊穣を祈り奉るねぶた、ハレの出陣である。
jr2018

白波五人男

白波五人男
                            北村 隆 先生

盗賊を主人公にした世話物のことを、特に「白浪物」と呼んでいる。

主人公は盗賊だが大悪党というよりは義理・人情の絡められた人物である。

弁天小僧菊之の助と南郷力丸は、共に大盗賊日本駄右衛門の子分。

弁天小僧は美しい武家娘に、南郷はその供侍に姿を変えて鎌倉の浜松屋を訪れわざと万引きをしたように見せかける。その二人の正体を見破ったのはすでに浜松屋に入っていた侍姿の駄右衛門。一連の万引き騒動は、駄右衛門を浜松屋に信用させるよう一味が仕組んだ芝居だったのだ。

この三人に、忠信利平と赤星十三郎を加えた五人の盗賊たち(白浪五人男)は、後日浜松屋に押し入るが、捕手に追われて稲瀬川に勢揃いし名乗りをあげる。

歌舞伎では「志ら浪」と書いた番傘に手ぬぐいを肩に名乗りを上げ、素性を明らかにする名場面である。
白波五人男

竜飛の黒神 男鹿の赤神

竜飛の黒神 男鹿の赤神
                                               北村 隆 先生

昔、竜飛岬に荒海のように気性の激しい大男で力持ちな黒神という神様が住んでいた。いつも大きな龍に乗っては大空を自由に駆け回っていた。

ある日、空の上から真っ青にすんだ湖のほとりにいる美しい娘にひとめぼれしてしまった。

その娘は十和田湖にすんでいる湖の女神であった。

女神は男らしい黒神に心惹かれていった。

ところがある日、金色の大きな鹿の乗った一人の若い神様が十和田湖にやって来た。

若い神様は秋田の男鹿半島に住む赤神であった。

女神は優しい赤神にも心惹かれるようになった。

黒神は女神を横取りされると思い込んだ。

竜飛の黒神と男鹿の赤神はある日、大戸瀬の海岸(今の西津軽郡深浦町)で決闘することになったという。

青森県の民話の一つである。
山田学園

堀川夜襲

堀 川 夜 襲  
                                              北村 隆 先生

 弁慶は武蔵坊弁慶といい、義経に仕え怪力無双の荒法師で名高く弁慶の七つ道具として言い伝えられている道具を束ねて背負っている。

 一方、土佐坊は土佐坊昌俊といい源頼朝に臣従し御家人として治承、寿永の乱に参加している。

 源平時代の武蔵坊弁慶と土佐坊昌俊はどちらも凄腕坊主として名高く、東の弁慶、西の昌俊と呼ばれている。

 文治元年、頼朝の弟義経が対立すると、義経を許さず腰越から追い返した後、土佐坊を京都に派遣し堀川の館の義経を打つように命じた。

 土佐坊は熊野詣と偽って京に宿をとったが、これを怪しんだ弁慶は単身土佐坊の宿所に乗り込む。

これが御所桜堀川夜討といわれる場面である。


堀川夜襲


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