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2016JRねぶた実行プロジェクト

蝦夷ケ島  夷酋と九郎義経
                             竹浪 比呂央 先生

寛政二年(一七九〇)、松前藩士にして「松前応挙」と称された画人、蠣崎波響によって描かれた傑作『夷酋列像』

 極彩色の豪華絢爛な衣装に身を包み、こちらをねめつけるような視線を送る十二人のアイヌの有力者・夷酋たち。精緻に描かれた、異国や別世界を思わせる姿形と気迫のこもった面持ちは、見る者に畏怖の念を抱かせ、目を奪われずにはいられない。

 このねぶたは、昨秋、北海道博物館にて好評を博した夷酋列像の特別展から着想を得たものである。



 源九郎義経は奥州平泉で自刃せず、生き延びて北を目指したと密やかに伝えられる。津軽半島からさらに北へ、北へ。海を渡り、広漠たる大地、蝦夷地(北海道)へと辿り着く。

 そこに生きるは力強く、生命力に満ち溢れたアイヌたち。水草を求めて水辺へやってきた鹿を素手で仕留め、日々の糧とする。厳しい自然に立ち向かい、時に共存しながらたくましく生き抜くアイヌの姿と、それを目の当たりにして己の天命を全うしようと固く決意する義経であった。
2016JR



 北海道新幹線の開通を祝し、更なる交通網の発達と沿線の繁栄を祈願するものである。
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2016サンロード青森

本能寺炎上「森 蘭丸と安田作兵衛」
                                千葉 作龍 先生
将軍 足利義昭の代。

天正十年(1582)六月二日未明。

「敵は本能寺にあり!」

織田信長の家臣、明智光秀による突然の謀反であった。

明智三羽鴉の一人安田作兵衛は、信長目掛け攻め入るが、

信長の側近である森蘭丸の槍に阻まれる。(ねぶたの場面)



「もはやこれまで」と信長は寺に火を放ち自害して果てた。

時に、信長歳四十九、天下一統を目前にしての最期であった。



「人間五十年 下天の内を 比くらぶれば 夢幻の如くなり。

 一度生を受うけ 滅せぬ者の あるべきか・・・・・。」

2016青森菱友会

箭根森八幡  
      竹浪 比呂央 先生


 時は平安。本州の北の果て、いまの青森県下北半島は艮の鬼門に当たり、悪鬼が住みついては害をなしていた。

 人々は困り果て、遠く京の都まで行っては、名のある武士に鬼退治を頼み込んだ。その願いに応えたのは、武勇の誉れ高き源頼義。兵士たちを従え、東北へと進軍する。

 鬼の住まう佐井(青森県佐井村)へやって来ると、頼義は海水で禊し、一心不乱に武運の神である八幡神へ加護を祈った。

祈り続けること七日目。にわかに暗雲たちこめ、波は逆立ち翻り、突風が吹き荒ぶ。そこへ忽然と現れ襲いかかる悪鬼。身の毛もよだつ恐ろしい鬼の形相に苦戦を強いられる。

 と、その時。一軍の前に顕れたるは八幡神。青龍に護り導かれ、神馬にまたがると、神通力を宿した弓矢をすっと空へ引き放つ。するやいなや、邪気を祓う音が海に鳴り響き、雲を蹴散らすと、悪鬼を射貫いた。轟音をあげ落ち来る悪鬼。八幡神の助けを得、鬼退治をすること叶った。

 頼義はこれに感謝し、神の箭根石(矢じり)がある場所に八幡神を祀ることとした。これが現在も佐井村に鎮座まします箭根森八幡宮である。

 神馬にまたがり、神変の弓矢を引き放ちて、まさにいま悪鬼を射落とす武神・八幡神の姿をねぶたに顕現す。
2016青森菱友会

封神演義

県庁
封神演義         大白 我鴻 先生

紀元前十一世紀、人界では殷王朝の最後の王となる紂王が即位した。
紂王は名君とされていたが、その優れた資質ゆえの慢心から、神である女媧の祭儀において「女媧は人間界のどの人間より美しい」と人間と混同した不敬な詩を読んだことから女媧の怒りをかった。
女媧は千年狐狸精に紂王を陥れるように命じ、千年狐狸精は紂王の寵妃である妲己の魂魄を滅ぼし身体を奪いとり、妲己になりすまして紂王を堕落させ暴虐な政治を行わせた。
一方仙界では、新たに神界を創設する計画が進められていた。
その執行者として選ばれた姜子牙は、神界を創設するために周を助けて殷を滅ぼし、その戦いの戦死者を神に封ずる封神の儀式の司祭を務めるよう命じられる。
姜子牙が巻き起こす殷周両軍の戦いは、仙界の仙人や道士の加勢を受け、壮絶な戦乱へと突き進む。
ねぶたは、四不相に乗る姜子牙に対し、敵対する弟弟子の申公豹が白額虎に乗り稲妻を随意に走らせることのできる「雷公鞭」を駆使する場面である。

南総里見八犬伝「庚申山の妖猫退治」

自衛隊
南総里見八犬伝「庚申山の妖猫退治」    
                        有賀 義弘 先生


 八犬士の一人である犬飼現八信道は、下野国で出会った犬村角太郎と共に庚申山の妖猫を退治し、人々を苦難から救った。角太郎は、その功績により霊玉を授り名を犬村大角礼儀に改め八犬士の一人となる。
 南総里見八犬伝は室町時代後期を舞台に、安房国里見家の伏姫と神犬八房の因縁によって結ばれた仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌の霊玉を持ち、牡丹の形の痣を持つ八犬士の物語である。
 彼らは仁義八行の玉の因縁に導かれ出会い、華々しく活躍しながらやがて里見家の下に結集し、里見家の危難を救うのであった。
 本作品は、妖猫を見事に退治し里見家を護る使命を完遂した八犬士に、陸上自衛隊第九師団が、国防という崇高な使命を愚直に完遂する姿と重ねたものであります。我々は今後も、いかなる任務も即応して完遂し、国民・地域の皆様の負託に応えて参ります。

蒙古襲来・風神、神風を起す

私たち
蒙古襲来・風神、神風を起す
           相馬 寿朗 先生と私たち一同

  鎌倉時代中期、当時、大陸を支配していたモンゴル帝国(蒙古)が2度にわたり日本を侵略しようと攻めに来た。
 1274年文永の役・1281年の弘安の役です。
 蒙古軍は九州の対馬や博多に上陸し、日本の武将、竹崎季長や九州の豪族たちと激しい戦となった。
 文永の役では蒙古軍3万余、弘安の役では総勢14万余の大船団で押し寄せたが、激しい戦の後、暴風に会い一晩で姿を消したと言われています。
 後に日本では、日本軍が劣勢の中、神風が吹き蒙古軍を二度にわたり全滅させたとして言い伝えられています。

風神雷神

愛好会
風神雷神        諏訪 慎 先生

 風神雷神は、人が怖れを抱くほどの偉大な力を見せる天然現象で、最も代表的な強風と雷鳴を、それぞれ神格化したものです。
 農業の守護神である風神、豊作をもたらす雷神は、農耕に欠かせない神として、古くから信仰されてきました。
 ねぶたは、大きな力を与えてくれる風神雷神と福を呼び込み、邪気をはらう獣神(じゅうしん)、方位を司る四神獣(しじんじゅう)で、五穀豊穣、海難回避を祈願するものです。

劉根・鬼人を呼び寄せる

PTA
劉根・鬼人を呼び寄せる
        内山 龍星 先生


 前7年成帝(せいてい)の時に、劉根は侍従官に任じられたが世を捨て仏道を学び、河南省の断崖絶壁の上にある崇高山(すこうざん)の石室に籠った。劉根 は疫病除けの法を知っており、河南省に疫病が流行るとその法を役人に教えた。そこで、役人がそのとおりにすると本当に疫病が絶えたといわれる。
 ところが新しく役所の長官に赴任した張氏は、劉根を怪しい術をなすという理由で出頭させ処刑しようとした。張氏は劉根に「道術で鬼神を呼び寄せてみよ」 と命じた。すると劉根は数百の鬼神を操り、後ろ手に縛られた老翁、老婆を車に乗せて役所の中に出現させた。それがすでに死んでいた張氏の老父母だったので 張氏は大いに驚き、叩頭して劉根に許しを請うた。だが、劉根は許さず、張氏も家族の者も間もなく死んでしまったという。その後暫くして、劉根は鶏頭山に入 り天に昇って仙人となった。

三国志より 張飛 長板橋に吼える

マルハ
三国志より 張飛 長板橋に吼える
              手塚 茂樹 先生


 桃園の誓いで劉備・関羽と義兄弟の契りを結んだ、中国 三国時代の豪傑 張飛翼徳は、一人で一万の兵に匹敵するといわれる程の勇猛さで、多くの武将から恐れられていた。
 後漢末期、劉備軍は敵対する騎兵五千の曹操軍から追撃され、とうとう当陽県の長坂で追いつかれてしまう。曹操軍を阻止する為、張飛はわずか二十騎を率いて長坂橋へ向かった。この橋を越えなければ劉備軍の所へ攻め入れないのである。張飛は一人その橋上へ立ち塞がった。
 そして、眼前に迫った曹操方の大軍に対し「我こそは張飛なり!勝負したい者は前へ出ろ!」
と目をいからせ蛇矛を振り上げ、地鳴のような声で大喝した。さすがの曹操軍も、この鬼のような迫力には怖れをなし、すごすごと退却するしかなかった。
 すぐさま張飛は部下に橋を破壊させ、見事に自軍を危機から救ったのであった。
 外敵から国を守るため、一人強大な勢力に立ち向かった張飛の勇姿に、困難が絶えない世の災いを払い、平和が続く事を祈り願うものである。

平 将門 と 執金剛神

あおもり市民
平 将門 と 執金剛神
                 北村麻子 先生


 平将門の乱での出来事である。平将門の乱とは、本来はあくまで一族の「私闘」であったが将門軍が国府とその周辺で略奪と乱暴の限りを尽くし朝廷に反旗を翻し関東一円を手中に収め、さらに自らを「新皇」と名乗ったと言う出来事である。
 東大寺三月堂の北側、厨子の中に祀っている執金剛神の前で朝敵降伏の法を行っていたところ、像の右錺が大蜂となりまた像からたくさんの蜂がでて東の戦場 へ向かって飛んでいった。戦場では大蜂が平将門を刺し、この乱を平定したという。朝敵降伏の法が行なわれている時、この像が姿を消し二十日あまりして、ま た元のところへ帰ってきたとも言われている。

羅漢

羅漢
羅漢     北村 隆先生
 羅漢とは「阿羅漢」の略で、煩悩を克服し真の悟りを得て供養尊敬を受けるに値する境地に達した人という意味であり入滅したお釈迦様に代わり、自らは現世に留まって仏教を守る者をいう。
 迦楼羅とは仏教に帰依する際に雨風を起こし人々を苦しめる悪龍や毒蛇を喰らうことをブッダから許される仏法守護の神となった。
 口から金の火を吹き、赤い翼を広げると336万里にも達するといわれる炎のように赤い霊鳥である。
 羅漢は迦楼羅を乗りこなし、手にした香炉の煙で秘術を使いさまざまな悪を食いつくし、天変地異から人々を守るという。
 世界中の自然災害が少ないこと願う。

三国志 荒武者、甘寧

パナソニック
三国志 荒武者、甘寧      北村 蓮明先生
              
 遊侠の世界から一転、勇猛果敢な武将になった者がいた。
 呉の孫権に仕え、「曹操には張遼がいるが、わしには甘寧がいる」と言わしめた折衝将軍、甘寧である。
 常に戦場を駆ける荒武者で、得意の武器に抜群の勇気と知恵をもち、ひたすら第一線で活躍していた。粗暴な反面、明朗で将来を見通す判断力に優れ、勇敢な兵士を数多く育てた。
 死因は史実では不明だが、「演義」では戦死したことになっており、大樹にいた数百羽のカラスが彼の屍を囲んで守ったという。
 のちに甘寧の「呉将軍廟」が建てられ、ご利益があると評判になり、船旅の安全を祈って肉片を投げると、カラスが空中で受け取って食べるという伝説が残っている。

波切不動

波切不動
波切不動        柳谷 優浩 先生 

 大同二年(八〇六年)十月 弘法大師空海が、唐より密教を日本へ持ち帰る際、玄界灘の荒れ狂う風と波に船はたびたび沈没の危機にさらされた。この時船中にて、師の恵果和尚から授かった霊木に大師自ら一刀三礼されて刻まれた不動明王に繰り返し祈念申し上げた。
 大嵐が最高潮に達しようとしたその時、不動明王が海上に降臨出現されたのである。
 その不動明王は大火炎を発し、右手にもつ利剣を振って魔風を鎮め、荒波を切り刻み続けた。大嵐は、やがて静寂の大海原となり遣唐使船は無事に大宰府へ寄港することができ、持ち帰った密教を日本に布教させることが出来たのである。
 このことからこの霊尊を波切不動明王と呼ぶようになり、その後日本全国で海難除け、航海安全の神様として多くのところで祀られることになった。
 不動明王は、大日如来の使者とされ、すべての障害を打ち砕き、仏道に従わないものを力ずくにでも導き救済するという役目を持っている。

つがる新田 信政公と水虎様

青森菱友会
つがる新田 信政公と水虎様    竹浪 比呂央先生

 水虎様というのは神様になった河童のことである。
 その昔、青森県の西に広がる津軽平野は沼地が多く、子どもたちの水難事故が相次いで起こっていた。人々は河童が子どもたちを水に引きずり込んでいると信じていた。
 江戸時代になり、弘前藩四代藩主、信政公の世。信政公は豊かな国作りをすべく、津軽平野を次々と新田開発をしていき、いまの五所川原市からつがる市木造のあたりが新田となった。この業績から、信政公は元禄年間(1688-1704)に大名七傑のひとりに数えられ、弘前藩の中興の英主とされる。
 田んぼとともにそこに住む人々も増え、津軽平野の新田地帯には百三十以上の新しい村が出来た。人口が多くなり、残された沼地や用水堰、小川の多いところでは、水難事故も増加の一途をたどった。これを河童の仕業として恐れた人々は、河童を鎮めるために神格を与え、「水虎様」という水難除けの神様として祀ることにした。水虎様信仰はつがる市木造の実相寺から始まったとされるが、津軽平野の水辺や道端、あちらこちらに水虎様はいまも祀られている。
 河童といえば相撲好きな妖怪として知られるが、信政公も大の相撲好きで観戦のため城の敷地内に相撲場を造ってしまうほどであった。そして相撲は日本のずっと昔から、神様に感謝を捧げる神事である。
 軍配を握る行司は信政公。邪気を払う四股を踏み、はっけよいと相撲を取るのは水虎様。津軽平野の五穀豊穣そして水難防止を祈願する大一番である。
 つがる市合併十周年を寿ぎ祝いの出陣である。

三井寺合戦 新田四天王大暴れ

日立連合
三井寺合戦 新田四天王大暴れ
                      北村 蓮明 先生


鎌倉幕府が滅亡した後、後醍醐天皇は天皇中心の公家を重視した新しい政治を始めた。
足利尊氏は武家政治の再興を目指して、後醍醐天皇に反旗を翻し京都を奪回。
建武の新政はわずか三年足らずで崩壊した。
天皇方は比叡山を拠点として、京都奪還を目指す。
天皇方の新田軍は、琵琶湖畔の三井寺に立てこもる足利軍に攻め入ろうとするが、堀にかけてあった橋をはずされており、攻めあぐねていた。
そこで新田義貞の部下の篠塚、亘理、畑、栗生の四人が大暴れ。
大卒塔婆を引き抜き橋をかける者。門柱を倒す者。仁王像を投げ飛ばす者。
周りをなぎ倒しながら三井寺へ攻め入る新田四天王の大活躍の場面である。

阿修羅と帝釈天

青森山田学園
 阿修羅と帝釈天      北村 隆 先生

 阿修羅は「太陽の神」「火の神」といわれ正義を司る神、三面六臂(三つの顔に六本の腕)の姿である。
 須弥山の北に住み、力を司る神の帝釈天と戦い続ける阿修羅は、のちに釈迦の教えによって仏教の守護神となり「天龍八部衆」(仏教を守護する八つの神)の一尊に加わるのである。
 争いは勝っても負けても傷つきます。
 争いを好んだ阿修羅も仏教界にはいり、合掌する姿は争いを捨てた姿です。
 争いのない平和な世界を願う。

「海峡」~義経伝説 時を超えて

東北電力

「海峡」~義経伝説 時を超えて
      京野 和鴻先生


 津軽海峡は、源義経が龍馬を携え荒波を渡ったという「義経渡海伝説」に始まり、青函連絡船の就航、青函トンネルの完成、そして2016年春には北海道新幹線が開通となるなど、めざましい変貌を遂げようとしております。
 現代に蘇った義経は、1954年に発生した青函連絡船「洞爺丸」の事故を契機に、世界最長の海底トンネル建設に向け、「かつてマンモスが渡った道を俺たちも進もう」と、全長53.9kmの青函トンネル開通を目指しました。
 世界初の試みであったこの工事は、幾多の試練と挫折に苦しめられましたが、工事関係者たちの30年におよぶ努力の結晶により、1988年に津軽海峡線が開通しました。
 時を越えて現代に蘇った義経が、出水続きの現場で腰まで水につかりながら陣頭指揮する様子を、長寿や健康の守り神である「赤龍」と、人々の幸せや家内安全の守り神である「青龍」が見守る姿をねぶたに表しております。
 また、このねぶたには、新幹線でつながる青森・東北・北海道のさらなる繁栄祈願を託しております。

三升清景 分身不動

三升清景
 三升景清 分身不動     立田 龍宝 先生

 悪七兵衛景清(景清)は平家の侍であり、反逆の英雄として様々な伝説を残している。その伝説の一つとして平家滅亡後に平家が遺したとされる宝の在り処を 聞き出すために、景清は源氏方に捕らえられ牢に入れられることとなる。しかし景清はどのような仕打ちにも耐え忍び、源氏方より与えられた水すらも飲まず に、一切口を割ることはなかった。業を煮やした源氏方は、景清の妻、阿古屋と娘の人丸を景清の牢の前に連れて行き責めたてた。ここまで様々な行為に耐え忍 んできた景清だが、この卑劣な行為に怒り狂って剛勇を振るい堅牢な牢を打ち破り、源氏方に対して荒々しく大立ち廻りをして一網打尽にした。これは分身不動 を守護神に持つ成田屋が、歌舞伎十八番之内で演じる荒事芸の一場面である。景清が戦に敗れ世間では悪としてみられても、己の正義を貫き大切なもの(誇り) を守りながら更なる発展を目指し、新たなる時代へと突き進もうとする場面としても有名である。
 私はこの景清に、青森市の大切なもの(誇り)であるねぶたの伝統を守りながらも進化し続けるねぶた師を重ね合わせた。このねぶたは、ねぶた師として伝統を継承し、青森市と青森ねぶた祭の更なる発展のために踏み出していくことへの決意をこめたねぶたである。


巴提便、大虎を退治す

に組大虎
巴提便、大虎を退治す
          北村 隆先生


巴提便(はすび)は545年欽明天皇につかわされて、妻子とともに百済へ向かった。
百済の浜で日が暮れたのでそこに泊まった時のこと。
子供が急にいなくなり、行き先がわからなくなった。
その夜は大雪で夜が明けてから探し始めると、虎の足跡が続いていた。
巴提便は刀を帯び鎧を着て岩穴を捜し歩くと、目の前に大虎が現れた。
刀を抜いて「自分は勅を受けて山野に奔走し、風雨にさらされ、草を枕に茨を床にして苦労するのは、子を愛し親の業を継がせようと思うためである。
神は私に子を一人与えたが、今夜その子がいなくなった。
跡を追って探しに来た。命を落とすことも恐れず、虎に報いるために」
その虎は前進し、口をあけて呑もうとしました。巴提便はさっと左手を差し出し、その虎の舌をつかみ、右手で刀を突き刺したという。
虎退治の話は数多くあるが、この話が日本で初めての虎退治の話だという。

不動と竜王

不動と竜王
不動と竜王      北村 蓮明 先生

 すべてを焼き尽くす炎の覇者不動明王は、怒りをもって強引にでも衆生を導く尊い仏である。
 燃え上がる火炎は煩悩を焼き尽くし、右手に持つ剣は煩悩を叩き斬る。
 左手に持つ羂索は衆生をからめ取って仏法世界へ救い上げるのである。
 一方、竜王は川、淵、池、沼、湖などに棲んでおり、水神として崇められている。
 雲を起こして雨を呼び、雷電をも司り、怒りにふれると大嵐になるが、農耕には欠かせない大切な神として、古くから信仰されている。
 天の恵みに感謝し、お互いを思いやる心を持つことで、不動と竜王に守護されるのである。

張順、湧金門の勇姿

張順
張順、湧金門の勇姿
             北村 春一 先生


 「水滸伝」に登場する好漢のひとり、張順。
 潜水泳法の天才で、渾名は波の上を駆ける白い魚を意味する「浪裏白跳」と言われ、梁山泊では水軍頭領のひとりとして活躍した。
 敵軍が杭州城に篭城した際、城に面した湖から水門を通って城内へ忍び込むことを進言。
 豪傑百八人の思いを背負い、たったひとり泳いで向かう。
 鉄格子の水門を破り城門前まで忍び寄るが、敵の罠により一斉に攻撃を受け壮絶な最期を遂げる。
 梁山泊軍を勝利へ導くことになった杭州湧金門での張順の勇姿を、たとえ険しい道であろうと前へ進む挑戦者の姿と重ね、未来への希望と思いを込めてねぶたの場面とする。

進藤庄兵衛、津軽信義を諌める

津軽信義
進藤庄兵衛・津軽信義を諌める
                       千葉作龍 先生


正保四年(1647)江戸津軽藩上屋敷。
津軽三代藩主「信義」は知人の大名たちを招き酒宴を催していたが生来の酒乱の悪癖のために客の大名たちは次々と席を立ってしまった。
これに腹を立てた信義は刀を抜き追いかける。しかし門外での忍傷ざたはお家取り潰しにもなりかねない。
その時家臣の「進藤庄兵衛」は命懸けで信義を引き止める。
その時信義の振り降した刀が庄兵衛の懐中の「千手観音」に当たり難を逃れたのであった。(ねぶたの場面)
庄兵衛は信義亡き後も名君と誉高い四代「信政」にも仕え「国にも替わる忠臣なり」と言わしめたという。
庄兵衛はその後、信政に青森城代家老として重用され、御仮家(出城)を建て盲目の弱者を起用し堀を作り又、新町に市を開くなど青森の発展に尽力した。そのジョッパリ精神は「鬼の庄兵衛」と称され現在も広田神社に奉られている青森中興の祖である。

平 将門

平将門
天慶の新皇 「平 将門」  千葉 作龍先生

 平安時代中期、天慶二年(九三八年)。
 第五十代・桓武天皇より六代の子孫、相馬小次郎・平将門は一族の所領争いに端を発し、武蔵権守・興世王らと共に時の権力、朝廷に反旗を翻し坂東八洲を征服・統治するに至った。
 将門は、本拠地である坂東下総・岩井の地(茨城南西部)を都と定め、自ら「新皇」と名乗った。
 世に言う「天慶の大乱」である。
 しかし、従兄の平貞盛と藤原秀郷の連合軍に敗れ、将門の野望は儚く散ったのであった。
 坂東の民に広く親しまれた将門は、今なお坂東武者の英雄として東京「神田明神」として奉られている。
 ねぶたの場面は、守護神の北斗七星の化身である「妙見尊星王」を仰ぎ、理想の独立国家を見据える「平新皇将門」の勇姿である。

津軽海峡 義経飛龍

義経飛龍

                  竹浪 比呂央 先生
 悲劇の英雄、源九郎判官義経。実の兄である源頼朝から追われ、北へと落ち延びるも奥州平泉の地(岩手県平泉町)にて襲撃を受け自ら命を落とした。しかしそれより後、人々の間では「義経は生き延びてさらに北を目指した」と、まことしやかに伝えられてきた。
 蝦夷地(北海道)へ渡ろうと、津軽半島の北の果て、三厩(青森県外ヶ浜町)へ辿り着いた義経だったが、津軽海峡は暴風が吹き荒れ、波高く、飲み込まれそうなほどおそろしい勢いで潮が流れている。とても船を出すことかなわず、進路を絶たれてしまった。
 そこで義経、肌身離さず持っていた観音像を波打ち際の岩上に置き、風波が治まるよう、三日三晩、一心不乱に経文を唱え続けた。そして満願を迎えた夜明 け。義経の前に白髪の老人が現れ、三頭の神通力を持った竜馬を与えると告げると、たちまち霞のごとくその姿は消えてしまった。岩の上から下りてみると、岩穴に三頭の駿馬が繋がれていた。
 授かりし竜馬に跨り、いざ蝦夷地へ向け荒れ狂う津軽海峡を翔け渡らんとする義経とその郎党 武蔵坊弁慶の姿である。
 来年に控えた北海道新幹線 新青森~新函館北斗間の開通による青函圏の緊密な交流と更なる繁栄を願い奉るものである。


達磨大師 喝

達磨大師


 達磨大師は、5世紀後半から6世紀前半の人物で、中国禅宗の開祖とされているインド人仏教僧である。
 宋(南朝)の時代に中国に渡り、洛陽郊外の嵩山少林寺にて面壁を行ったことで悟りを得たと言われ、「少林寺武術」の開祖ともされている。
 達磨大師の説いた教えは、鎌倉時代に日本に伝わり、「禅」と呼ばれ、禅宗という宗派が誕生した。この教えとともに、達磨大師の肖像や伝説を描いた画も伝わり、達磨大師の姿は、禅画として今も数多く残されており、民衆には「七転び八起き」、「必勝」等の縁起物として親しまれている。
 このねぶたは達磨大師が9年間、壁に向かって座禅し続け、不撓不屈の精神にて悟りを得た姿であり「喝」の怒声にて己が煩悩を振り払い、また、迷い苦しむ者へ救いの道を示す姿を表したものである。
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